2019年度 文化財学・民俗学部会発表要旨
 

1、仁治度賀茂御祖神社本殿の室内装束について

広島大学 山口 佳巳

 京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)は、長元9年(1036)に式年遷宮の制が定められたとされ、元亨2年(1322)まで概ね20年もしくは21年に一度、造替が行われていた。南北朝時代以降、従来の式年遷宮が難しくなり中絶したが、江戸時代になると幕府によって再開され、社殿の形式が維持されている。

 式年遷宮が滞りなく実施されていた時期にあたる仁治3年(1242)の「山城賀茂御祖社遷宮用途注進状」には、仁治度造替に際して新調された本殿の室内装束が挙げられている。本発表では、この注進状を用いて仁治度本殿の室内装束を復元的に考察する。特に、神座である御帳台を構成する部材の名称と寸法も記されており、その詳細を知ることができる。鎌倉時代の本殿の室内装束が神座も含めて復元できる例は珍しく、当時の格式高く、正式な室内装束として基準となるものである。

 

2、邑久大工による塔建築について

広島大学卒文学部科目履修生 平 幸子

岡山県内に遺る塔建築は19基を数え、京都府、兵庫県に次ぐ全国第3位の多さを誇っている。その内訳は、五重塔が1基、三重塔が14基、多宝塔が4基となり、三重塔は国内最多を数え、中でも近世に建造された三重塔が9基と多いのが特徴である。近世の三重塔の中で邑久大工による塔建築の作事例を年代順にみると①曹源寺三重塔(岡山市円山)元禄15年(1702)②千光寺三重塔(赤磐市中島)明和2年(1765)③金山寺三重塔(岡山市北区)天明8年(1788)④余慶寺三重塔(瀬戸内市邑久町北島)文化12年(1815)⑤五流尊龍院三重塔(倉敷市林)文政3年(1820)となる。今回は邑久大工集団を束ねる大工棟梁として宿毛村に本拠を構えた田淵一門が最初に手がけた金山寺三重塔について中世三重塔との相違を考察する。

 

3、色紙窓に関する考察

広島大学 坂本 直子

色紙窓とは、茶室の窓の一形式であり、上下に中心をずらして配した二つの窓のことを指す。古田織部(重然)の創始とされ、その称は、色紙形あるいは色紙散らしの張付けに似ているところからきているとされる。

しかし、江戸時代の茶書では、色紙窓とは一つの窓のことを言い、上下二段の内下段の下地窓、あるいは正方形の窓を指しているものがある。このことは翻刻書等で指摘されているが、考察はなされていない。また、形式についても、江戸時代の茶書や起し絵図などの資料、および現存茶室の色紙窓と称される上下二段の窓を詳細に検証すると、窓の種類、配置等に違いがあり、必ずしも中心をずらして配置したものばかりではない。このように色紙窓の定義は曖昧である。

そこで本発表では、茶書にある色紙窓に関する記述、および現存茶室における上下二段の窓の形式を検証し、色紙窓の本来の意味、形式、その変遷について考察を行う。